西予市明浜町は、石灰の生産で一時は南予の新居浜と言われたくらい産業が盛んな地域でした。
明浜町は石灰岩地層が多いところで、石灰つくりは、文政11年(1828年)、宮野浦岩井地区で小型窯での石灰焼を行っていたと伝えられていますが、嘉永3年(1850年)、高山の宇都宮氏が、小僧津(こそうづ:高山中心部から少し俵津より)に、土佐より徳利の形をした縦穴式の近代的な石灰焼技術を導入して窯を築いて石灰製造を始めたのが明浜町の石灰産業の基礎をきずいたという。
この徳利窯での石灰の作り方は、窯の上から石灰石と石炭(当初は雑木や木炭)、岩塩を交互に入れて下から火をつけ、2~3日後に下の取り出し口から焼きあがって白く酸化カルシウムになった「ガラ」を取り出す。これに水をかけると熱と蒸気が出て白い粉末の消石灰が出来るという。上から次々に材料を継ぎ足すと連続生産ができる当時としては革命的な技術であった。
明治に入って石炭が使われるようになって効率が上がり、生産量は飛躍的に伸び、明治29年には製造業者83社数え、運搬する機帆船業者も60軒を超えた。
大正期には、窯数70基、従業員数1,000人、年産3.5万トンが出荷され、日本各地のほか朝鮮・中国・東南アジアにも輸出された。
しかし、昭和40年以降、化学肥料の普及、陸路交通の不便さ、良質の原材料石灰岩減少、採掘条件の低下、鉱脈の小ささから大規模生産が出来ず、設備近代化の遅れなどから衰退の一途をたどり、高山の石灰製造は昭和54年に幕を閉じた。現在でも20数基の窯の跡が残っているという。
大早津海水浴場のシーサイドサンパークにある高山石灰窯。
下の穴。人が十分入れる。ここから取り出した。 上の段の河童のモニュメント。
塔和子さんの記念碑。大崎鼻公園にもある。 窯の上に行く。
窯の上部。
下の取り出し口の光が見える。ここを「おてんす(お天守)」という。
石灰の作り方。 高山石灰窯の説明板。
キャンプ場の上が石灰岩採掘場所。約160年前に採掘が始まったという。
砂浜の向こうが船の積む込み場所。 ここから船に積み込んでいた。
宮野浦の窯跡。 国道378号の道路横。
少し進んだところにある窯跡。 中に入れる。
中に入ると上部の投入口が見える。 井戸の底から上をのぞく感じ。
フラッシュ撮影。 レンガで作られている。
「岩井の石灰窯」田之浜の手前のバス停「岩井」から100mほど進んだ右側。
穴は小さく4カ所ある。現存で一番古いという。まき式の土中窯は日本でここしか残っていない。
石灰は、江戸時代は漆喰に使われ、近代化が進むと土壌改良剤やセメント原料となった。
岩井地区の山側にある幻の滝。地元の人に聞くと「ジャダキ」(漢字不明)というらしい。雨の後しか水が流れ落ちない。以前、たくさんの水が流れ落ちている滝を見たことがある。めったに見れない幻の滝である。
明浜にお越しの際はシーサイドサンパークにある塩風呂の「はま湯」にお入りください。
明浜町では石灰を使った名物料理があります。
一つ目は、「うど貝」。
海の中の石灰岩に、うど貝が体内から出てくる酸で石灰岩を溶かしながら岩の中に自生しており、石を海から引き揚げて金槌で割って貝を取り出し味噌汁や酒蒸にして食べるとおいしい。日本でも明浜以外にあるとは聞いたことがない。4~5センチの大きさになるのに20~30年かかるとのことで、成長するのも貝を獲るのも大変ですね。
二つ目は、「灰屋(はいや)いも」
生石灰に水をかけると化学反応で出る約200度の熱を利用していも焼く。作り方は生石灰に水を入れて混ぜた中に芋を入れる。その上に水を混ぜた生石灰をかぶせていもをサンドする。そしてふたをして90分待つと出来上がり。90分加熱し続けることによりいもの中までしっかり熱が通り甘みが増し芯までホクホクになる。普段は行っていないが、団体観光客が利用したい場合は、西予市役所明浜支所明浜産業建設課までご相談ください。TEL 0894-64-1287
西予市は「四国西予ジオパーク」に認定されるなど自然・地質・歴史・文化などに富んだところです。
この明浜町には名所がたくさんあります。ぜひ来られてゆっくりとした時間を過ごしてください。
By 「ひとりしずか」 でした。